政宗以後の文化の広まり
時代を超えた広がり
伊達政宗が築き上げた新しい文化は、その後さまざまな方面への広がりをみせ、より一層熟成されていき、その文化は現在宮城に暮らす人々の生活のなかにも深く根付いています。
政宗の文化に対する姿勢は、2代忠宗、3代綱宗、4代綱村、5代吉村と、次代の藩主たちに受け継がれ、さらに深化、発展を遂げていきました。忠宗の手による東照宮、瑞鳳殿、圓通院霊屋、綱宗による陽徳院霊屋、綱村から吉村の手による鹽竈神社などの建造物には、政宗の志向した豪華絢爛さがうかがえます。
構成文化財一覧
全国への広がり
都の文化にあこがれた政宗ですが、それとは反対に都人たちは、古来遠いみちのくをあこがれの地として数多くの歌枕を詠んでいることから、領内にある松島や木の下などの歌枕の地に御仮屋を建て、酒宴を楽しみました。政宗の歌枕への深い造詣は、忠宗や綱村による古典の研究や名所旧跡の調査に引き継がれ、藩を挙げて歌枕の地の再発見と整備、保護に取り組みました。
その成果は江戸にも伝わり、松尾芭蕉は歌枕の地を自らの目で確かめようと、松島をはじめ、壺碑、末の松山、興井、籬が島、つゝじが岡、薬師堂などの歌枕の地を訪れ、その様子を『おくのほそ道』で紹介しています。そしてこれがさらに大きな影響をおよぼし、仙台藩内の歌枕はますます全国へ広まっていきました。
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庶民への広がり
政宗が築き上げた文化は、仙台城下の町人や職人など幅広い階層の人々に広がっていきました。仙台藩とのつながりの深い民俗芸能が、仙台城下で上演され、藩の保護・制約のもとで演じられています。大崎八幡宮の社人が例祭に行っていた神楽、八幡宮別当が関わっていた盆の鹿踊・剣舞、正月の城下の賑わいに華を添えた田植踊などの民俗芸能は、旧仙台城下及びその近郊の庶民などがその命脈を伝えました。また仙台城下が最も賑わった東照宮例祭の仙台祭は、伊達政宗をまつる青葉神社の例祭に行われる、仙台青葉まつりに受け継がれています。
また仙台藩の御用を務めた御職人たちが担っていた工芸品は、仙台城下の職人に引き継がれ、仙台平や仙台御筆、堤焼、仙台張子、仙台箪笥などへと広がっていき、今日でも伝統工芸品として生き続けています。